作品の言語化、(オマージュ: 劇団イヌカレー)

自分の作品を一度言語化してみることは、自分の作風を確立することにつながる。

 

みたいな言葉が、ゼミ中に聞こえてきました。

たしかに、この言葉は的を得ていると思う経験はあります。

作品のキャプションやコンペの解説文、論文のIntroを書いていくにつれて自分の作風ややりたいことが明確になっていきましたし、それによって生まれた考えは新しいアイデアを生む際に軸に据えて考えることに繋がりました。

 

なので、今回は劇団イヌカレーのオマージュ作品の解説?をしようとおもいます。

いや、正直新幹線が暇なだけ、、、

 

まず、劇団イヌカレーさんの解説から

美術作家・梅沢和木さんが、アニメーション作家/劇団イヌカレー・泥犬さんに聞く、「個人的なアニメーションをつくる理由」|INTERVIEW|Qonversations

まあ、このサイトのインタビューが神すぎるので読んでいただけると概要はわかるかと

 

自分が劇団イヌカレーが好きな理由は、好きなアニメ「魔法少女まどかマギカ」魔女の結界のデザインをしているから、というのが一番の理由です。

 

「幼稚園児のような無邪気さの中に狂気がある」

 

これが劇団イヌカレーさんの作品の魅力だと思ってます。

この表現を自分のものにしてみたく、オマージュ作品を作りました。

f:id:tsukuda1999241:20190426201800j:image

作品全体のテーマ、解説

血飛沫がついた白い布の上に少女が埋まっている。

上からは無数の手やハサミが少女に向かっている。

無邪気だけど残酷な少女を断罪する正体不明の狂気(顔が見えてない)が天井から伸びてきてる。

的な、無邪気さからくる狂気と、正体不明の怪物の狂気を描いた的なノリです。

まあ、後ずけも多いけどw

で、蓮コラみたいに自分の身体と絡めて想像してしまうものには感情移入しやすいと思い、作品と平面の絵としてではなく額縁から出てきている立体作品にしました。

また、劇団イヌカレーのコラージュというテーマを切り絵という形で表現してみました。

切り方や破り方は、切り絵の雰囲気に影響するじょで自分のイメージに近くなるように選びました。

 

また、自分が劇団イヌカレーの作品に感じる「幼稚園児のような無邪気さの中に狂気がある」という部分を

 

「無邪気さ」を表すもの

女の子、薔薇、イチゴ、ハサミ(小学生が使うイメージ、文房具)

 

「狂気さ」を表すもの

模様、赤と黒、インクの飛沫、手、ハサミ(切る物)、目、裂けた口

 

として表現しました。

 

どうしても、狂気さに比率が多いので無邪気さの部分を増やした作品を次は作ります。

色変えたりとか?

あと、特定の部分を誇張して書くっていうのを意識してなかったので、そこを意識したいーーーーー

 

劇団イヌカレーさんのオマージュ作品を作ってみると、写真とか、テクスチャの違うものをあそこまで馴染ませるの半端ねぇ!!!ってなりました。

勝てるイメージがわかないw

 

宣伝!!!!

5/11に筑波で行うイベントで展示するから来てね

怪物になるたちへ、、、上位者

つくばには上位者がいる!!

 

 

自分の地元は、福岡県北九州市です。

世界遺産の「八幡製鉄所」や工場が広がっています。

 

f:id:tsukuda1999241:20190117054924j:image

 

f:id:tsukuda1999241:20190117055010j:image

 

f:id:tsukuda1999241:20190117055014j:image

 

 

いわゆる工業都市です。

毎週末、商店街を練り歩き、友達と馬鹿騒ぎしながら暮らしていました。

高校生の僕には、刺激的な町だったのです。

 

 

 

 

そんな町、スチームパンクの世界で育ってきた自分には、つくばの町は新鮮でした。

 

自然が豊か

田んぼがいっぱい

歩道や道路が広い

山がない

 

こんな、印象をはじめは抱いていました

 

 

 

 

 

 

はじめは、、、

 

 

 

 

 

 

 

新鮮味が薄れてきた頃、僕は新たな印象をつくばに抱くようになります。

 

ナウシカ

x

攻殻機動隊

 

ノスタルジーな雰囲気もあり、サイバーなテクノロジーの雰囲気も感じる。

僕が好きな “Biopunk” の世界にいるような気がしてザクザク生きていこうと思っていました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

途中までは、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ですが、ある日気づいてしまいました、、、

 

このつくばには “上位者” がいるということに

http://k456.hatenablog.com/entry/2015/05/03/084557

 

 

どこにいても “何か” からの視線を感じます。

 

 

 

 

 

 

 

これは、

 

 

 

・娯楽と呼べるものがなく、自分を内省せざるをえない

・森が多いので何者かがそこにいるように感じる

 

 

 

というつくばの土地柄が原因かもしれません。

 

 

「北九州では、“人” いれば楽しめる。

しかし、つくばでは “人” であれば自分に殺される。」

 

 

 

そんな危機感を抱くようになりました。

 

 

 

 

「口笛を吹き、スキップしながら、針の山を渡る。

 

発狂しながら、快楽に揉まれながら、地獄の釜を犬かきする。

 

自分が人間であるかを疑ってはいけない。

 

自分は怪物でなければならない。」

 

 

 

 

つくばに来て、もうすぐ一年、、、

僕は上位者になれるか、わからないまま、日々上位者と交信しています。

 

 

そんな怪物にならなければならない者のために、

狂って踊り続けなければならない怪物たちのために、

 

上位者と交信する場を設けようとも思ってます。

それは、おいおい告知するとして、、、

 

 

 

人のままつくばでの狩をまっとうする方法が僕にはわかりません。

 

怪物になるか、上位者になるしか生きぬく道は無いと思います。

 

 

ぜひ、狩人のまま狩をまっとうできる人が居れb

「心の露出狂」

昆虫は可愛い!

 

 

自分の今年の抱負は「心の露出狂」です。

真面目に文章を書きはじめると、当たり障りのないことしかかけないことが最近の自分の短所だと思ってます。

なので

変に取り繕わず露出していく方が良いのでは?

という試みの一環としてブログを書いてます。

もう一つの理由として、「心の露出狂」というからには自分の見られたくない面ももちろん露出しなければいけません。

なので、初っ端から自分の嫌いな部分から話して行こうと思います。

 

自分のことは嫌いではないのですが、自分の嫌いな側面はあります。

リンゴが好きでも芯を食べようとはしない感覚と似てるかな?

とりあえず、そのさわりとして一つ告白すると、、、

 

 

自分は生物がもがいてる姿を見るとゾクゾクしてしまいます。

 

 

・粋がった小学生みたい

・人に対してもひどいことを言ってしまう

・世間体にリアクションを返すのがめんどくさい

などが嫌いな理由としてあり直そうとしてみるのですが

グロテスクな映画を見たりジリジリと恐怖が近寄ってくる描写を前にすると、体が反応してしまう、、、

しょうがないくらいに反応してしますのです。

 

昆虫に電極を指すときの外骨格が

反発して

反発して

最後に、プスっと貫通した時に感じる触覚

製作モードの時は進んで感じようとはしませんが、

製作モードに入りその感覚を感じた時には、もう前立腺にキュンキュンくるような感覚に襲われます。

 

幸福感と快楽のまどろみに全身を揉まれるようで、、、なんと言うか息を荒げて笑いも込み上げて瞳孔も開き発狂してしまいます、、、

多分。

 

自慰行為よりエクスタシーを感じているかもしれません。

 

 

その時にふと感じることがあります

もちろん昆虫達が何を思ってるか理解はできませんが、

必死にもがいて ”何か”  から逃げようとしている気がします。

 

 

何から逃げたいの?

「俺?」

 

殺すわけじゃないよ!

「数匹は食べるけど」

 

痛かった?

「外骨格だから痛いわけないだろ」

 

昆虫は人間と違って外骨格です。

外界との区別をくっきり分けようとしているように自分は感じます。

数億年の間、螺旋の呪いによって外界との壁を作らざるおえなかった昆虫達は、やっぱり何かに繋がれる、何かと繋がることが怖いのではないか?と思います。

ですが、外界と繋がることは ”気持ちいいこと”  かもしれない。

事実、筆を取り自分の嫌いな一面を書いているこの瞬間は ”気持ちいい”  です。

 

始めは嫌がり苦しんでいるように見えるセミ達も、強制的に声を発して歌わされることで、自己暗示的のように

「これは苦しくないことだよぉ、気持ちいいことだよぉ」

と自分に言い聞かせるようになります。

 

成虫になって歌い続けるために有機的自然からエネルギーを取り続けるセミ達、

無機的自然から受動的にエネルギーを得て歌える

と言うことは超生物を見ている気がして神秘を感じます。

 

自分も電気刺激で自分の筋肉を動かして遊ぶことがあります。

本質的に自分の体は自分で動かす必要がある以上、外的な受動的な刺激は受けづらいです。

しかし、体を外部に接続して他人に制御してもらうことで外的な刺激しか得られず、清々しいまでの気持ち良さを感じることができます。

 

コマになっている気分。

自分で回っているのか回らせれているのかわからない。

 

僕の幼年期は始まりだしたのか?

終わりだしたのか?

 

始めは怖がっていても気持ちよくなってくれたよね?セミちゃん、、、





Tukudba

一年の佃です。

 

ラッキー7ということで7日を頂きました。

 

ネタがなくてアンケートを募集したところ


「好きなことについて自慰的に書いていい」という事なので趣味とかフェチについて自分を見直す意味も含めて書かせていただきます。

 

といっても、自分の趣味のこだわりをツラツラ書いても恥ずかしいだけなので、好きな作品について語ることを通してフェチズムを話せたらなぁと思います。

語りたい部分が多いので各作品から一つずつ話していきます。

は?とか思わないでね、、、

 

 

は?

 

 

 

まずは〜〜〜〜〜〜〜

 

 

こいつから語っていきたいと思います。

あらすじはこれで見てくれ

【ネタバレ】魔法少女まどか☆マギカってどんな話し? - NAVER まとめ

中でも好きなのは「新編叛逆の物語

ホムホムが円環の理に導かれるシーンがかっこよすぎる!!!!

まどか「待たせちゃって、ごめんね」
まどか「今日までずっと頑張ってきたんだよね」
ほむら「まどか…」
まどか「さあ、いこう」
まどか「これからはずっといっしょだよ」
ほむら「ええ、そうね…」

ほむら「この時を、待ってた」

(ほむら、まどかの手を掴む)

まどか「あっ!ほむらちゃん!?」
ほむら「やっと、捕まえた」
杏子「お、おい!」
マミ「なによこれ!?」
マミ「あ、暁美さん!?」
なぎさ「ソウルジェムが呪いよりもおぞましい色に!」
さやか「なんなのあれ!?」
さやか「欲望?執念?いや違う…暁美ほむら、あんた一体!?」
ほむら「理解できないのも当然よ、ええ、誰に分かるはずもない」
ほむら「この思いは私だけのもの、まどかのためだけのもの」
まどか「ほむらちゃん、だめ…私が裂けちゃう!」
ほむら「言ったはずよ、まどか」
ほむら「もう二度と、あなたを放さない」

(おぞましい色が世界を包む)

(ピンクの糸巻きが落ちていく)

(ほむらがソウルジェムを噛み砕き、糸巻きがダークオーブになる)

QB「世界が書き換えられていく…この宇宙に、新しい概念が誕生したというのか?」
ほむら「そういえば、あなたは覚えていなかったわね。私にとっては 2 度目の光景だけれど」
QB「何が起きているんだ!」
QB「暁美ほむら、君は何に干渉しているんだ、何を改竄してしまったんだ!?」
ほむら「フッ」
QB「信じられない…」
QB「呪いに染まったソウルジェムが、消え去るはずの君の魂が…なぜ?」
ほむら「思い出したのよ」
ほむら「今日まで何度も繰り返して、傷つき苦しんできた全てが、まどかを思ってのことだった」
ほむら「だからこそ、今はもう痛みさえ愛おしい。私のソウルジェムを濁らせたのは、もはや呪いでさえなかった」
QB「それじゃあ、一体!?」
ほむら「あなたには理解できるはずもないわね、インキュベーター
ほむら「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いモノ、

    『愛』よ。
         

人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いモノ、『愛』

クーー〜〜

しびれますね!

夏休みに蝉を使った作品を作った(しれっと宣伝)のですが、初めは楽しかった、好きだったものに対してもドス黒い感情が生まれてしまうもの。

蝉に対しても、憎悪、絶望、焦燥、期待、恍惚、、、様々な感情が湧いてきました。

気分転換にまどマギを見るのが日課だった僕はこのセリフを聞いた時、

 

『君のハートにレボリューション♥️』

 

な気分になりました。蝉を捕まえに外に出た時、聞くだけで気を失いそうな音を発していた蝉のことを愛せている気がしました、、、

 

まとめると

「希望を抱き、例え絶望を知った時も、踏みとどまる事で見えてくる峠 <> がある」

的な感じです。

こんな感じのテンションでどんどんいっちゃいましょう

 

 

 

 

 

 

 

伊藤計劃について語り出すと長くなるので、ココは

「harmony/」

に焦点を当てて考えていきたいと思います。

まあ、何回読んでもわからないとこはあるのですが、、、w

突然ですが

 

 

 

 

 

 

 

「御冷ミァハに殺されたい」

 

 

 

みんなそうでしょ?

異論は認めん!そもそも出ないはずだけど、、、

村上龍の「愛と幻想のファシズム」が好きなので、自分がカリスマが好きというのは理由としてあるかもしれない。

冗談はさておき、

この章では

「ミァハのカリスマ性と伊藤計劃作品の魅力」

について語っていきます。

 

権力という言葉が出てきますが、ココでの意味は

 

心の中に巣食っているもの

特定の人もしくは集団が掌握しているものでは無い

 

的に広い意味で捉えていただけると助かります。

(本当は、キアン、トアンについても書きたいけど、ぐっと我慢だ!)

 

 

まずはミァハについて、、、

 

 

ミァハのカリスマ性は

 

綱渡りを鼻歌を歌って渡りそうな危うさ

神秘性

 

にあると思います。

そこに痺れる憧れるーーー

 

それに加えて

 

人を絶やす殺してしまうほどの覚悟

 

だと思います。

覚悟というと少し語弊があるのですが、思い当たる言葉がないので、許してw

チキンな自分は行動するために覚悟がいるのですが、

ミァハは覚悟とするとかいう次元に居ないんですよw

なので、覚悟というと語弊があるw

 

話を戻します。

人を殺してしまうほどの覚悟

作中、ミァハはキァン、トァンの父、身近な人を二人殺しています。(一人は間接的にだけど)

それなのにミァハは顔色ひとつ変えず(小説だから多分だけどw動揺してる描写ないし、、、)

ヴァシロフは――残念だった。トァンのお父さんも

とか言ってます。

その謎を解くと気持ち良さそうなのでちょっと考えてみます。

 

作中、ミァハは自殺を目的に行動しています。

それは、トァンとキァンと自殺しようとした時も、ハーモニクスを実現させようとした時も

この行動の意味は

この世界を憎んで、この世界に居場所がないって言って、その子は死んでいった。わたしはそのとき思ったの。わたしは人間がどれほど野蛮になれるか知っている。そしていま、逆に人間が野蛮を――自然を抑えつけようとして、どれだけ壊れていくかを知った。

わたしたちが奴らにとって大事だから、わたしたちの将来の可能性が奴らにとって貴重だから。わたしたち自身が奴らのインフラだから。だから、奴らの財産となってしまったこの身体を奪い去ってやるの。この身体はわたし自身のものなんだって、セカイに宣言するために。

権力が掌握してるのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在のもっとも秘密の点。もっともプライベートな点

これらのセリフに集約されていると思います。

 

自我がない世界<調和のとれた世界>はミァハにとっては死と同義です。

だから、実際に死んでも変わらないのでトァンに抵抗しなかった

っていう解釈の小話もできるんですけどw

 

(小話はスルーしていただいて、、、)

 

つまり、

この世界を憎んで、この世界に居場所がないって言って、その子は死んでいった。わたしはそのとき思ったの。わたしは人間がどれほど野蛮になれるか知っている。そしていま、逆に人間が野蛮を――自然を抑えつけようとして、どれだけ壊れていくかを知った。

みたいな地獄を 

Harmony

自我が無い調和のとれた世界

という別の地獄で塗り替えているんですよ。

 

野蛮な世界(世界を憎んで死んでいった子)の命救うために

自然を押さえつける世界(キァン)から魂を解放するために

 

なんか、この部分が自分には腑に落ちる説明がなくて、、、

面白い解釈あれば教えてください

 

自分の話に置き換えると、動物を使って実験をするときに、

自分にとっては

Biopunk

という世界を目指す目的があるですが、ミァハほど鼻歌歌いながら確信を持ってできないんですよねw

まあ、ミァハはかっこいいと思うけど、なれないなら、なれないでしょうがないかなぁ、

とw

 

ちなみに、キァンは幸福になれた派ということから、ミァハに殺されたい発言が来てます

 

 

 

 

 

伊藤計劃作品の魅力について

 

長々とミァハへの信仰を語ってしまったので、魅力はサクッとw

伊藤計劃の長編作品って作品が作品の中に出てくるんですよね。

虐殺器官は、主人公が国際裁判的なやつで書いたであろう文書

Harmony はハーモニクス後の世界での記録(etmlは擬似的感情を呼ぶ起こすプログラムだと思う)

屍者の帝国も、フライデイの手記だと思う

 

 

NieRシリーズについても語りたいのですが、多分このブログよりはるかに長くなりそうなので今回は割愛します。

 

 

あ、言い忘れてた

エッチな方のフェチはお腹フェチです

本当の気持ちと向き合えますか?

「“something”をやりたいんだけど、“challenge”のせいでできないんだよねぇ」

 

と言ってる人をたまに見かける。別にこの発言を悪くいうつもりはないが(現に自分も建前として使ったりするし、、、)、この言葉の裏には「衝動」と「憧れ」の混同がある気がする。

 

自分の中での定義として、

「衝動」-----「心に様々な感情がまだらにあり、自分では抑えようのない抑えようとすら思わない、愛のような感情」

「憧れ」-----「自分の理想像や、ある人物、生物、事象、物体に自分の姿を投射すること」

と考えている。

 

アニメ「魔法少女まどかマギカ」で言えば、前者がホムホム→まどか、後者がまどか→マミさん、に対する感情とも言えるだろう(超絶わかりやすい!!さすが!!)。

 

この定義に当てはめると、何事でも、些細な事や類似する何かはすぐにすることはできるはずなのに行動せず上記の発言をする時点で、上記の発言の中で出てきた “something” は「衝動」の対象ではなく「憧れ」の対象である。

そして大概の場合、上記の発言の本質には劣等感や焦燥感が含まれている。行動するバネにできる劣等感なら良いが多くは「挫折に酔うための酒」として消費され、焦燥感は「やる気があると自分に感じさせるための催眠薬」として消費される。

 

結果、なんの成長も産まずに周りに愚痴を吐いて終わるだけだ(自分も時々やってしまうので書いてて心が痛いw)。

 

「↑の感情に飲まれながら行った事が良いもののはずないだろう!一回くらい「衝動」で何かをやってみろよ!」

って思っちゃうわけです、、、

 

話を無理やりまとめると、「憧れ」を「衝動」と勘違いしているのは如何なものか?という話です。「憧れ」がダメだと言っているわけではない、という事を注意してくれると、ありがたき幸せ。

 

 

 

 

Oculus go と 植物 と

f:id:tsukuda1999241:20180530181459j:image

最近、oculus goを購入した。

自分は前々から、「服の素材に繊維以外のものも使って良いのでは?」という考えがあり、

「これを期にコンピュータを身につけてみよう!」

と思い立ち、一部で流行っているoculus goを首から下げるスタイルを試そうと思った。しかし、よくよく調べてみると直射日光を当てるとレンズで光が収束し、ディスプレイが焦げてしまうので、レンズに日光が当たらないようなカバー的なものがいるらしい。

「日光が当たるなら植物を身につけるのもありかも、、、」

実家のキッチンで母親が買ったカイワレの根で二次栽培していたのを思い出し、スーパーに直行した。カイワレとブロッコリーを買い、根をプラスチックの容器に入れoculus goに装着した。

f:id:tsukuda1999241:20180530182027j:image

いい感じ、、、

しかし、次の日に問題が発生した。カイワレから異臭がするのだ。母親に対処法を聞くと、カイワレは二次栽培ができないらしく蒸れて腐っているとのこと。しかも、母親が育てていたのは豆苗だったのだ。今夜も、またスーパーに買い出しか、、、

でも、一日中一緒に過ごしてみて人間中心主義感が薄れ、三位一体感が増したので良しとしよう。

f:id:tsukuda1999241:20180530181958j:image

画像: 装着時

[今日のメモ]

繊維だけでなく有機物やコンピュータも身につけたら面白い?